大丈夫、大丈夫じゃない
燕秋山がおよそ人間らしい身なりを保って人前に出られるのはひとえに知春のおかげである。髭は知春に剃ってもらい、知春が枕元に用意した服に着替えて出掛けてゆく。燕秋山は装うことに興味のない男であるため知春がいなければ無精ひげを生やしてよれよれのシャツを着ているだろうし、知春が用意した服ならアロハシャツでも構わずに着て仕事に行くだろう。
その日も燕秋山は知春が用意したシャツをスラックスに着替え、朝食をとり、家を出た。
「行くぞ、知春」
「うん」
「……」
「何か?」
部屋の外に出た燕秋山が一瞬立ち止まり何かに気付いたような顔をしたので知春が尋ねたが、いつも通り口癖の『大丈夫』という返事が返ってきただけだった。
「燕総、知春さん、おはようございます」
「ああ」
風神のメンバーが集まる会議室に二人が顔を出すと、隊員たちが口ぐちに挨拶の言葉をかける。
この日の予定について打ち合わせをするために燕秋山が王澤の姿を探すと、すぐに部屋に入ってくるのが見えた。王澤も燕秋山の姿を見て、さりげなく知春の方を見てからまた視線を戻した。
今朝は燕秋山も王澤もどことなく挙動が変だ、と知春は首を傾げた。
王澤は風神の制服の上からジャケットを羽織り、手には紙のカップに入れられたホットコーヒーを持っている。そのコーヒーを王澤が差し出すと、燕秋山は礼を言って受け取った。
そこまでの流れを見ていた知春は、はっとした顔になり王澤の方に向き合うと強い口調で尋ねた。
「王澤、もしかして今日……涼しい!?」
「あー、えー……、まあ昨日よりは」
王澤がお茶を濁すような返事をすると、知春は今度は燕秋山に向かって怒った。
「秋山!寒いなら寒いってちゃんと言って!」
「別に大丈夫だ」
「大丈夫じゃない!人間はこの気温に半袖だと風邪を引くんだよ!」
風神の部下たちは、人間の体調について人間が剣霊にお説教をされている図を、笑いを堪えながら横目で見ている。
ここ数日は暖かい日が続いており、すっかりこのまま夏になるのではないかと思われていたところに今日はたまたま気温が低く、そんな日に限って知春は天気予報を見ていなかったのだ。もちろん出掛けるときに外気温に気付いた燕秋山が一言、やっぱり上着を持ってくる、と言えばそれで済む話であるが、燕秋山は自分が肌寒いのを我慢すればいいと思っているような男だった。
知春は自分が羽織っていたカーディガンを脱いで、急いで燕秋山の肩にかけてやった。
「とりあえずこれ着てて」
「要らない」
「着て」
「知春が寒くなる」
「私は風邪引かないって知ってるでしょう」
まさに夫婦喧嘩はなんとやらで、部下たちは苦笑しながら見ていることしかできない。折衷案として王澤がどこからか見つけてきた以前に燕秋山が来ていた制服の上着を着ることで話はついたが、それでも知春は口を尖らせていた。
「秋山、大丈夫じゃない時はちゃんと大丈夫じゃないって言ってほしい」
「必要ない」
「私がお節介っていうこと?」
「そういう意味じゃない」
燕秋山のあまりの口下手さに横で見ていてもどかしくなる王澤だったが、そのうち真意がちゃんと伝わる日が来るだろうと静観に徹していた。
それから数年後、知春は蜃島の毒に蝕まれて燕秋山の元からいなくなった。それでも燕秋山は生きており、自分で用意した服を着て自分で髭を剃り、しかし人間の形を保てているのかどうかも自分ではわからない。
(お前がいたころは本当に何もかもが大丈夫だったんだよ、知春)
胸のうちで呟いた言葉を受け取ってくれる相手はもうここにはいなかった。
PR