破酒館にて
北京β星時代と本編終了後の陸林。新星暦の世界にバレンタインがあるかは知りません!
「林」
「………」
カウンター席に座ってテーブルに肘をつき、にこにこと呼びかける陸必行とは対照的に、マスターはにこりともせずに視線だけをそちらにやった。とはいえこの酒場の店主が無愛想なことは一度でもここに来たことがある者なら皆承知のことであり、いつもの風景ではある。
というわけでとくに意に介さずに陸必行は注文をした。
「アレクサンダー」
「……?」
「知らない?」
「いや、知ってるし作れる。珍しいと思っただけだ」
この店によくやってくる陸必行があまり頼んだことのないタイプのカクテルだったため、少し林静恒は不思議に思ったようだ。棚からクレーム・ド・カカオを取り出しながらそんなことを言うと、その返事が聞きたかったとばかりに陸必行は嬉しそうに言った。
「林、今日が何の日だと思ってるの」
「知らん」
「バレンタインだよ!こういうお店してるんなら知っておいていいんじゃないのかな」
「そんなものを楽しみにうちに来る客はいないだろう」
ろくな客が来ないこの酒場でそんな物好きの客は陸必行くらいだ、と言っているらしい。林静恒の嫌味はこう続いた。
「で、自分で注文して自分で飲むと?」
愛想のないこの店のマスターとてバレンタインがどんな行事かは知っている。しかし陸必行はいつも通り一人で来て一人で飲んでいる。
「まあまあ気分だけでもってことで。もちろん君がご馳走してくれるんなら喜んで受け取るけど」
陸必行のウィンクをあからさまに無視しながら、林静恒はふと子供の頃のことを思い出した。
陸家でバレンタインに贈り物を持って帰ってくるのは自他ともに認める愛妻家である陸信であった。ミュラー氏への薔薇の花束と、林静恒も食べられるようにチョコレートを買ってくるのが常だった。林静恒があの家で育った間のあたたかい思い出の一つだが、陸必行を前にするとついこんなことを考えてしまう。陸信たちの子供が無事にあの家で生まれていれば、林静恒は小さな弟とチョコレートを分け合って食べただろう、と。林静恒の方がずっと年上なのでほとんど弟にあげてしまっていたかもしれない。
「わかった」
「えっ?」
突然の林静恒の言葉に陸必行が不思議そうな声を出す。
「二杯目からはちゃんと払って」
「……もちろん!」
つまり先ほど陸必行が冗談半分に言った通りにこのカカオリキュールのカクテルをご馳走してくれるらしい。まさか提案を承諾してもらえると思わなかった陸必行は、ご機嫌で一口一口なくなってしまうのが惜しいとでも言うように大事にそれを飲んだのだった。
「そう思うと君からもらったものってたくさんあるんだなあ。機甲、直筆サイン、面談前の通行許可に指輪にカフスボタン……」
銀河城で一番評判のいい洋菓子店で買ったチョコレートを林静恒の口に運びつつ、感慨深げに陸必行が言った。もはや抵抗することをやめた林静恒はおとなしくされるがままにチョコレートを口に入れ咀嚼している。
もちろんここが自宅であれば林静恒とてやぶさかではないのだが、あいにく二人が今いるのは総統執務室であり、仕事で帰宅が遅くなると聞いた陸必行が薔薇の花束とチョコレートを持って押しかけてきたのであった。
いくつになっても陸必行が可愛いのに加えてその行動が往年の誰かを彷彿とさせるので『帰れ』と一蹴することもできず、湛盧の薔薇を飾らせたあとコーヒーを淹れさせて休憩することにした。明日、総統の元に訪れた部下たちはそこに飾られた派手な花束に目を丸くすることだろう。
「おいしい?」
「うん」
素直な返事に陸必行が満足気な顔をした。
「恋人や夫として君から贈り物をされるのはもちろん嬉しいんだけど、でも今考えるとあの『酒場のマスター』から特別扱いされるのも気分がよかったな。ねえ、引退したら銀河城でまたバーでも始めない?」
陸必行の素っ頓狂な提案に、林静恒は声に出さずに笑う。誰が元連盟第一上将・林静恒がカウンターに立つ店でくつろげるというのだろうか?
「それはいいが、これから僕が始める酒場で君を特別扱いしてもそれは別に『特別』にはならないんじゃないか?」
「はは、本当だ。残念なような嬉しいような」
そう言って笑うと、陸必行はもう一つとチョコレートを林静恒の口元に差し出すのだった。
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