湛盧、早く教えなさい
本編終了後に陸必行が学院の教師に復帰する話です。
その日は陸必行が星海学院の教師として復帰する第一日目であった。
といっても学院がある宇宙ステーションと陸必行たちの家は同じ第八星系でも離れた場所にあり、行き来できないこともないのだが家庭の時間を大事にしたいという本人の意向により基本的には遠隔授業である。生徒たちとのインタラクティブなやりとりを……ということであらかじめ記録しておいた講義を配信するのでもなく、教室に投影された陸必行の立体映像がその場にいるかのように講義を行う。期末の何コマかは実際に学院に赴いて、生徒たちとともに実際に機甲に触れる実習を行う予定だ。
第八星系の外までも名が知られた陸必行の授業ということで学院の生徒以外でも聴講できないかという問い合わせが多く、学院と協議した結果、その日は記念講義として配信形式で一般にも公開されることとなった。
「親愛なる学生諸君――」
そう言って始まった陸必行の講義は『機甲入門』をベースとしながら自らの体験を交えて語られ、いつかの講堂のように不躾な質問で乱入してくるような学生もおらず、誰もが好奇心に満ちた顔で耳を傾けていた。
「先生、コーヒーでしたら私がお淹れしますが」
「いや、いい」
書斎で講義中の陸必行の邪魔をしないようにリビングにいた林静恒は、時計を確認するとおもむろにキッチンへと向かった。誰に似たのかお節介が止むことのない湛盧が林静恒のあとを追うと、茶葉をティースプーンで片手鍋に入れているところだった。
「なるほど。先生のミルクティーはずいぶん上達されましたから陸校長もお喜びになることでしょう」
「黙れ」
「それでは私は引き続き陸校長の記念講義の視聴に戻りたいと思います」
「ああ、そうしてくれ」
出来上がったミルクティーをカップに注ぐ頃、ちょうど書斎が静かになったので林静恒はノックをして中に入った。
「ダーリン!」
自分を労うために来てくれたことを大いに喜んだ陸必行は、抱きつかんばかりの勢いで林静恒を迎え入れたのだった。
しかし、普段であれば通信機器のセッティングや操作をミスすることなどない陸必行は久々の授業で舞い上がっていたのか不運なことに授業のための立体映像をオフにすることをすっかり忘れていた。
素晴らしい講義の余韻に浸っていた聴講者たちは、陸必行が誰かの名を呼ぶワントーン高い声を聞いて何事かと再び視線を陸必行に集中させた。そこには先ほどまでと同じく陸必行の姿しか見えないが、見えないのだが、しかし隣にいるのであろう彼のパートナーの姿がありありと見えるようだった。そして陸必行たちは第八星系どころか全宇宙で最も有名なカップルといっても過言ではなく、誰もがその『ダーリン』の正体を知っていた。
陸必行は彼から何かを受け取ったあと、一呼吸も置かずに愛と賞賛の言葉を捲し立てる。
「君はなんて素晴らしいんだ。どうして僕が君の淹れてくれたミルクティーが飲みたいってわかったの?とってもいい香りがするよ。……うん……おいしい。甘過ぎないかって?甘さもちょうどいいよ。甘過ぎるっていうのは初めて君が僕に飲ませてくれた時のことを言うんだよ。あの時は二つの意味でびっくりしたなあ。ありがとう、ダーリン。ああ、なんてことだ!ティーカップを持っていると君を抱き締められない!愛する夫にハグができないなんて僕はなんて不幸な男なんだろう!?お礼のキスはあとでたくさんしてあげるから少しだけ待っていてくれるかな。うん?……湛盧?何か緊急事態でも?……なるほど、立体映像がまだ……あっ、ちょっと待って!今オフにする、オフにするから!!」
そこで陸必行の姿は一旦消えたのだった。
聴講者たちが呆気にとられていると、再び陸必行の姿が現れた。
「えーと、みなさん。僕のハズは少し恥ずかしがり屋なのでさっきのことはできれば内緒にしてもらえますか?それじゃあまた来週!」
陸必行は一言だけこう告げるとまたすぐに消え去ったのだった。
しばらくの沈黙ののちに、書斎の中では林静恒の怒りを滲ませた声が響いた。
「白銀一!白銀三!」
しかし林静恒の手元の通信機からは、手遅れです!という悲痛な返答が届いたのみだった。
「先生、もし映像データ消去ができたとしても職権濫用で通信法第七条に違反するのではないでしょうか」
「湛盧、お前も気付いたならさっさとこいつを引き剥がさないか」
「申し訳ありません、先生。緊急事態でない限り『お二人がご一緒の時は邪魔をしない』という陸校長の命令が優先されますので」
「まあまあ、あんまり湛盧を責めないで」
「一番反省するのは君だ!」
そうして陸必行が見えない林静恒統帥に愛の言葉を語りかける映像はバイラルメディアを駆け巡り、のちのち「家庭的でやさしい林統帥」という誤ったイメージの流布に影響を与えたとか与えなかったとか。
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