一体誰の話だったのか
後味が悪い。
その日洛冰河が人界のとある街に出向いていると、一人の女が屋敷の前で膝をついてすすり泣いていた。屋敷の門のところに立って女を罵っているのはこの家の女主人といった風情だろうか。
「旦那様が亡くなるまで温情でこの家に置いてやったんだよ。感謝はされても恨み言を言われる覚えはないね」
「そんな……私はここを追い出されたら行くあてもないのです」
女主人は初老と言っても差し支えない年頃に見え、察するに屋敷の主人の正妻と妾のように思われた。夫が死んでこれ幸いと妾を追い出そうとしているのだろう。
普段であれば人間同士の揉め事などどうでも良いと放っておく洛冰河だったが、とあるやりとりが耳に入り立ち止まったのだった。
「どうせ元々物乞いの親なし子なんだろ。前の生活に戻ったと思えばいいじゃないか」
「そんな……」
彼女たちのやりとりを遠巻きに見ている近所の者たちの噂話も聞きたくなくとも洛冰河の耳に入ってくる。曰く、身寄りのなかった女は金で買われて年老いた主人の妾となり、正妻は日頃からこの妾が気に入らなかったようだ、云々。
洛冰河は女の元に歩み寄ると、笑顔で手を差し伸べた。
「どうぞ立ち上がってください。あなたによくお似合いの服が汚れてしまう」
「あなたは……?」
女は突如あらわれた美貌の青年を前に呆気にとられているが、女主人はさらに表情を歪ませた。
「旦那様の喪も明けていないうちから他の男に色目を使うとはとんだ女だね」
洛冰河は罵り言葉を聞き流しながら、背後に控えていた部下たちに短く命じた。
「焼け」
「はい、君上」
何をするつもりだ、と人々が口にする間もなくその屋敷は灰燼に帰した。
このあたりの家は密かに近隣の仙門と通じて魔族を討滅せんと計画をしており、洛冰河がこの街を訪れていたのもそのためだった。蒼穹山がほぼ壊滅状態になった今、そのような弱小仙門が何かしようとしても洛冰河の勢力を削ぐことなど不可能だろうが、念を入れておくに越したことはない。この女主人の態度は確かに洛冰河を不愉快にさせたが、遅かれ早かれこうなる運命ではあった。
目の前で起きたあまりの出来事に女主人はそのまま憤死し、洛冰河は呆然としている女を抱きあげた。
「どうか、私と一緒に来ていただけませんか?」
花が綻ぶような洛冰河の笑顔に、女は顔を赤らめて頷く。
こうして洛冰河の後宮にまた一人妻が増えた。
女は洛冰河より一回り以上年上で、美女たちが並ぶ後宮に気後れをしていたようだったが、洛冰河に優しく手を引かれて幻花宮の寝室まで連れて来られた。洛冰河のことは好ましく思うがまだ夫の喪が明けていないから、とその日のうちに枕を交わすことは断ろうとしていた女だったが、洛冰河の熱烈な求愛に陥落するのに半刻もかからなかった。
「何か、あなたの話を聞かせてください」
寝乱れた新妻の髪を梳きながら、洛冰河はこんなことを言った。聞かせられるような話などほとんどない、と困惑していた女だったが、ふと何か思いついたようでぽつぽつと話を始めた。
「……奥様が言った通り、私は昔みなし子だったのです」
「奇遇ですね。私もそうですよ」
洛冰河がそう笑いかけると、女の緊張が少し緩んだようだった。
「それで同じように親のない子たちが人買いに集められて、中でも一番弟のように懐いていた子がさっきみたいに『何かお話をしてください』と毎晩私の元に来ていたのです」
「へえ」
「その子は気が強かったけれど他の子たちとはあまり仲が良くないみたいで、心配していたのだけどその内に私はあの屋敷へ……」
今までずっとその子のことは忘れていたけれど、この宮殿に足を踏み入れたときになんとなく思い出したのだと女は話した。
「つまらない話ですね、ごめんなさい」
「いいえ。きっとその子も今頃どこかで元気に暮らしていますよ」
「そうだと嬉しいのだけれど」
こうして幻花宮の夜は更け、しかしその子どものなれの果ては宮殿に隠された水牢に転がっていることを女も洛冰河も知ることはないのだった。
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